猫を起こさないように
日: <span>2001年7月29日</span>
日: 2001年7月29日

イマジン

 何もない日々。穏やかな日々。(閉め切った薄暗い室内のじめじめした布団の盛り上りが画面に映る)。大手サイトのリンク集に名前を連ねることもなく、ネットワナビーの経営する弱小サイトの掲示板で非難や中傷の的になることもない。ネット社会での私は完全にいないものと同じになっていた(布団の盛り上がり、画面に映る。さきほどと比べ、窓から差し込む陽光に室内の様子が明るくなっている)。まるで、個人日記サイトなどというネット上のカテゴリを知ることもなく、ただガツガツと心を飢えさせていた十代のあの頃に戻ったかのようだった(布団の盛り上がり、画面に映る。窓から差し込む陽光、弱まってきている。盛り上がり、微動だにしない。間。室内は再び暗闇に包まれる。布団の盛り上がりがわずかに揺れる)。食卓で愚息の余分な薄皮を弄びながら、。おたくとは一番遠い人のように、まるでおたくを人ごとのようにして談笑する自分を見つけたとき、私は愕然とした(湯気を立てる食事を前に、ズボンを半ばずりおろしてチンポの皮を引きつのばしつしている男が、対面に座った女性に強く叱責されている写真が挿入される)。私がいるいないに関わらず、ネット社会の時間は変わらずに流れてゆく。だが、それを知って、気が楽になった。『サクラさん』は、朝の用便の最中に着想してから1時間で書き上げた。(軽快な音楽とは裏腹な、薄暗い部屋の中で分厚い眼鏡に背中を90度に丸め、 モニターから10センチの距離に顔面を接近させた鬱陶しい図柄の写真が、何枚もスライドのように画面に挿入される。最後の写真は、”笑いの演技の練習中”としか形容できない男の顔面の様子がアップで写される)
 (映画館の座席に腰掛けた男の姿が映し出される。股ぐらにポップコーンの大きな器を抱え込んで、ぼろぼろと盛大にこぼしつつむさぼっている) 「ア、アニメはいいね。アニメはとてもいい。だってそれは本当のことじゃないからね。本当のことじゃないってことは、覚悟をしなくていいってことだよね。だからとてもいい(スクリーンの映像の光が男の顔面に照り返し、一種異様な雰囲気を作り出している)」
 ――あなたはアニメの中で、何が一番好きですか?
 「小さな女の子だね。生まれ変わって、まず何になりたいかって聞かれたら、小さな女の子だって答えるよね。だって、そうすれば、ずっと誰からも後ろ指さされることなく小さな女の子といっしょにいられるわけだよね。いや、ちがうんだ、もちろんアニメの方の小さな女の子だよ。だって、現実の小さな女の子は、まァ悪くはないけど、泣くし、臭いし、わがままだし、じきに小さな女の子じゃなくなってしまって、ただのイヤな女が残されるだけでしょ。それはとても残酷だし、ぼくにとっても、女の子にとっても辛いことだよね。ね。(男の隣に座っていた女性、もうたまりかねたといった様子で席を立ち上がり、その場を立ち去る。湿度が高まった女性器を指で擦るときの擬音に、甲高い声で”アイアムゲイカ”という歌詞の連呼が加わる曲が流れ始める)」
 (ひどいせむしの男と女性が、第三者が見たならばお互いが知り合いであるとはとうてい思えないような距離をおいて歩いている) ”ぼくはホームページを更新するとき、自分と同年代の人々を思いながら、彼らに語りかけるように更新するんだ。『やあ、小鳥猊下だ。最近調子はどうだい。元気でやってるかい。80年代、90年代はガンダムとかエヴァンゲリオンとか、大作化するRPGとか、ジャンプの衰退と復権とか、ひたすらおたくで、さんざんだったな。21世紀はお互いいい時代にしようぜ』”
  
 「(小太りの男が、ほとんど両足を動かさないまま、左右に跳びはねるように近寄ってくる。フェンスに飛びついて)なあ、小鳥猊下、あんた小鳥猊下だろ。信じられねえ! 今日ここで会えるなんて! なあ、握手してくれよ! おれ、あんたの大ファンなんだ。(せむしの男、尊大にフェンス越しに手をさしのべ、握手をする)信じられねえ! 信じられねえよ! なあ、聞いていいか? nWoはいつ更新を再開するんだ?」
 「明日だ(せむしの男、フェンスから歩み去る)」
 「(跳びはねて近寄ってくる小太りの仲間たちに向かって)なあ、小鳥猊下だ。小鳥猊下と握手しちまった! おれ、信じられねえ! 信じられねえよ!」
 (黒い服に身を包んだ女性が背中を向けて座っている)
 「いま思えば、いくつか事件の暗示はありました。発売日にジャンプを買って来なかったり、以前はあれだけむさぼるように執着していたし、批判の言葉もものすごかったのに、最近では1時間ほどでゲームをプレイすることをやめてしまったり。何のコメントも無くです。ああ、でも、これらはすべて後付けの理屈なのかもしれません。本当のところ、かれの内側で何が起こっていたのかは、どんなに近しい人間にもわからない。かれにしかわからない、かれだけの世界なのですから」
 (プリントアウトしたものらしい紙束を胸に抱えて、数人の女性が泣きじゃくっている)
 「私たちにとってnWoは特別なの。私たちは小鳥猊下とともに成長してきたわ。猊下は私たちがなんとなく感じていた生きにくさに指をさして、”それはおたくだ”ってはっきりと言ってくれたの。私たちは初めて自分たちのおたくに胸を張ることができた。学校にいても、会社にいても、どこにいてもnWoがそこにあるってわかったから。おたくじゃない猊下のnWoなんて考えられないわ(紙束に顔を埋めて号泣する)」
 早朝の駅前ロータリー。低く流れるキーを外した不安な音楽。とある量販店の前で、某有名大作RPGの路上販売の声が響く。遠くからふらふらと歩いてくる男。男、香港の路地裏の屋台に裸にむかれて吊された鶏の死骸を連想させる様子でネクタイに緊縛されている。高まる不安な音楽。路上販売のあげる威勢のいい声。ふらふらと白昼夢の中の人のように、そこへ歩み来る男。突然の突風に揺れる某有名大作RPGのロゴを染め抜いた旗。路上販売のまさに前にさしかかる男。音楽はもはや耳をおおわんばかりの音量と不安定さで流れている。一瞬写真のネガのように反転し、停止する風景。男、路上販売に一瞥もくれずに通り過ぎる。叩きつけるピアノの音。男、人混みの中を駅のエスカレーターへと呑み込まれてゆく。駅前に行き交う老若男女、男の姿が見えなくなると一斉に地面に倒れふし、大声で泣きわめきながら、”オールユーニードイズオタク”という歌詞を、互いに肩を組んで即席のウェーブを作りながら歌い始める。
 ぼくは自分の中のおたくがわかりすぎるぐらいにわかってしまっていた。例えば”12名の血のつながらない妹による乱痴気騒ぎ”といった断片的なキーワードから、自分がどのくらいの笑いとエロと批判と自虐とを含んだ更新をすることができるか、やる前からもうすでにわかってしまっていたんだ。生来の内罰性と無気力が、互い自身の歪んだ相似からくる際限の無い自己嫌悪の螺旋を作り出す平穏な日常という名前の地獄。ぼくとぼくの中のおたくはいつも、とても苛立っていた、お互いのすべてが見えてしまっていた。創造の魔法は終わったんだ。
 (明らかに日本人では無いが、国籍の特定できない顔立ちの男が、正面を向いて座っている。心地よいと感じる抑揚をわずかに外した日本語で、男、話し始める)
 「それは最初はほんの気まぐれな思いつきだったのかもしれません。きっとお互いの中にあった閉塞感に何か、風を入れることができたらと思ったのでしょう。実際かれらの様子はとても陽気で、何もかもうまくいっているように見えました。でも、そのとき、そこにいた誰ひとりとして、それがnWo最後の更新になるなんて、想像すらしていなかったのです」
 ビルの屋上に置かれた雨ざらしのスピーカーから、突如”ドントレットミーゲイカ”という歌詞で始まる曲が、薄曇りの夏の夕空に向けて大音量で流れだす。スピーカーより遠ざかっていく視点。最初、耳を覆わんばかりのすさまじい音量で、スピーカーの音割れからか、何か人外の獣の吠え声のような、悲鳴のような切迫感を伴っておんおんと周囲に鳴り渡っていた曲も、カメラの視点がわずかに遠ざかるだけできれぎれとなり、すぐに何も聞こえなくなる。